上司や先輩、飲み会などで歌わないといけない場面で、 西田佐知子 年配の方も遠慮なく歌いやすい1曲!. bit.ly/1UaOgXp<昭和30年代編>戦前・戦後と歌謡界の主流であった音楽学校出身者は30年代に入るとかなり少なくなる。昭和21年に、NHK素人のど自慢が始まり、素人が人前で歌を歌う機会が多くなり、歌謡コンクールなどをきっかけとしてデビューする歌手も増えてくる。 森山良子 朱里エイコ 中森明菜 渚ゆう子 越路吹雪 南沙織 山口百恵 森山良子 水前寺清子 五輪真弓 弘田三枝子 青江三奈 愛川みさ 川辺妙子 中山千夏 吉永小百合 小坂恭子 優雅 ちあきなおみ しばたはつみ 伊藤咲子 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 時代を牽引したアーティストさんばかりですね! 由紀さおり 荒木由美子 ミミ 天地真理 美空ひばり 山本リンダ 小山ルミ 森山加代子 弘田三枝子 松本ちえこ 緑川アコ 森昌子 庄野真代 辺見マリ 竹内まりあ 小川知子 中山千夏 渡辺真知子 都はるみ 森昌子 岩崎宏美 西田佐知子 森山加代子 山本リンダ 中村晃子 昭和歌謡のグループ歌手(その1)⇒こちら 今70代から80代くらいのお年寄りが好きな歌を私の母(80代)が若い頃に唄っていた曲や、デイケアセンターのレクリエーションでみんなで唄っている人気曲などから厳選しました。, 今70代や80代、または90代の人が好きな歌手って、リアルタイムでその活躍を知らなかったり、薄っすらとしか憶えていなかったりするんですよね。, でも、色々と調べて記憶を辿っていくと、「ああ、そういえばこの曲、昔、テレビやラジオで聞いたことあるな。」とか、「これ、母がよく唄っていたっけ!」と段々と思い出して、その曲が流行った世代ではない私も、懐かしい気持ちになるから不思議ですね。, 今回は、70代80代の人が好きな女性歌手の人気曲と男性歌手の人気曲、特別企画として70代80代の人が好きな昭和の歌姫とその曲、最後に彼らが小学校時代に唄っていた唱歌の紹介をします。, 1977年(昭和52年)に発売されて、その年の日本レコード大賞を獲得した石川さゆりの超名曲です!, それから現代までず~っと、老若男女に歌い継がれている大人気曲で、70代80代の人が30~40代の頃に出現したメガヒット曲ですね♪, これは、男を残して1人、東京から青森。そして、青森から津軽海峡を超えて北海道に渡る女の歌。, 1975年 (昭和50年)に発売されて、第18回日本レコード大賞と同じ年に第9回日本有線大賞の史上初のダブル受賞をした大ヒット曲です。, 都はるみは他にもヒット曲が数々あるのですが、突然、「普通のおばさんになりたい!」とか言って、芸能界を引退しちゃったんですよ。, 別れた男のセーターを編む女という歌詞に当時は、”重い女”のイメージで誤解して受け取ってた人もいたみたいですが、実は、セーターを編むことで「けじめ」を付けるという意味を込めて作られたそうです。, でも、男性はもちろんだけど、女性もなんか、この部分にわけもなくキュンキュン来るとこありませんか?, 作曲の古賀政男さんから生まれた、いわゆる古賀メロディーという曲調なんだそうですよ(^^), サブちゃんは、私が子供の頃はとにかくずっと、紅白の大トリを務めてまして、もうそれは不動の地位と言っても過言ではない程だったんですよ。, そんなサブちゃんも何年か前に紅白を”卒業”したなんて、時代は確実に流れてるんだなぁとつくづく実感します。, これ、確か石原裕次郎も唄ってるけど、私はやっぱり、ロマンチカの三條正人さんのが絶品だと思いますね。, 1982年(昭和57年)の大ヒット曲です。その年の第24回日本レコード大賞を見事受賞したんですよ。, これは、今の80代くらいの人が中高年くらいの時に流行った曲ですが、結構みなさん唄えてましたよ。, コンプライアンスがあろうがなかろうが、今も昔も、禁断の恋にシビるのは同じなんですかね(笑)。, 「(結婚)指輪を抜いたあとの指を思い切り噛んでください」みたいな歌詞がヤバすぎです。, 80代の人だって、ちょっとくらい色っぽい気分になるのも、悪くないのかもしれませんね。, 1988年(昭和63年)にヒットして、同年の全日本有線放送大賞グランプリを受賞しました。, これも今の80代の人が、仕事も充実してくる40代後半から50代前半の頃に流行った曲ですけど、あまりに名曲すぎて、世代飛び越えて人気があるようですね。, でも、年をとっても、今までの日本を支えた男性なら、この部分に誰もがジィ~ンと来るのではないでしょうか。, 戦後の焼け野原で、誰も彼も希望を失っていたあの頃、歌のうまい少女 “ひばりちゃん”の存在が、どれだけ日本を元気付けたのかを若い頃から、よく話して聞かされたものです。, 母は、そんなにファンじゃなかったようですが、世の80代には、島倉ファンが沢山いるはずですよ(^^), 菅原都々子さんの『月がとっても青いから』の高音の独特な唄い方、当時のものまね芸人がよく真似してしましたよね(笑)。, これも、戦後の日本に光を差すようなドラマで、当時の大人から子どもまで夢中で聞いていたそうです。, あの頃に斬新なリズムで踊って唄う彼女を見て、当時の若者はどんな風に感じていたんでしょうね。, 何も言わないリンゴだけどその気持がよくわかって、可愛くてしょうがないと言う歌です。, 従軍看護婦だった清水さん(この歌の作詞家)は、戦地から帰って来たら、家も家族もすべて失っていた為、「夜の女」になるしかなかった悲しみを込めて作った曲らしいです。, 映画の中の挿入歌で、銀座の進駐軍のお相手をする女性を唄った歌だそうでが、それにしても、ヤケに明るい曲です。, 日本の歌百選の1曲。親子が長く歌い継いでほしい曲101曲の中のひとつなんだそうです。, わらべ「めだかの兄妹」テレサ・テンの「つぐない」「愛人」、「時の流れに身をまかせ」もすべて、作曲家・三木たかしさんと作詞家・荒木とよひささんがコンビを組んで作った歌だそうですよ。, これは、春だけじゃなくて、夏、秋、冬の訪れを水の中のどじょうやふなが、”きっと、こんな風に思っているよね!?”という、魚の気持ちを書いた歌。, 幼い子供の頃の高齢者のみなさんも、きっと、この歌のように想像を膨らましていたのでしょうね。, これは、サトウハチローさんが娘さんのために作った詩で、「お嫁にいらした姉さまによく似た官女の白い顔」という歌詞に、自分の姉が18歳で嫁いで結核で亡くなってしまった事を詩っているというのは有名な話しですね。, 『うれしい雛祭り』というタイトルと相反して、曲想がなんだか物悲しく憂いを秘めてるのは、そのせいでしょうか。, 【関連】春に唄いたい童謡を19曲集めました。動画や歌詞もついているので一緒に唄ってくださいね♪, 雪国の長い長い冬を過ごしてきた家族が、囲炉裏の周りに集まって、それぞれ思い思いの事をしながら、寄り添ってる風景が浮かびます。, きっと、もうすぐそこまで来ている春に、手が届きそうで届かない…。 そんな家族の姿を詩っているのかな?なんて思わせる曲です。, 作者不詳のこの歌が、こんなに長い間、歌い継がれて来たのは、誰からも愛される名曲だからですね。, みんなでこの歌を口ずさめば、小さな子どもの頃に帰ったような気持ちになるんじゃないかな?, あっ、それと、この歌ならではの”あるある”なんですが、あなたは「雪は”こんこ”あられや”こんこ”」のところ、”こんこん”と唄っていませんでしたか?, 昔の歌って、意外と言葉を思い違えて覚えていたりすることがあったりして、後で正解を知ると、笑っちゃったりしますよね。, 筑前今様と呼ばれた福岡藩の武士たちに歌われていたものが日本全国に広まったもので、雅楽の越天楽のメロディーにさまざまな歌詞を当てはめて歌う越天楽今様が元になっている。, 母も言ってたけど、この歌を唄いながら泣いている利用者さん(デイケアの)が沢山いたんだそうです。, 私が思ってたより、70代80代の人が好きな歌って、男女のディープな恋愛の歌だったり、女の情念みたいな曲があって、びっくりしちゃいました。, お年寄りと言えども、今までいろんな経験をしてこられた人たちですから、男女の情念の歌を唄いたい気持ちもわかるような気がします。, 母がデイケアに短期入所して、私も時々そこを訪れるようになって 他の高齢者に接してみて感じたことは、彼等は、私よりも遥かに色々な経験をしてこられた方たちなんだなという事です。, もう何のしがらみのない今、歌の世界の中だけでも、遠慮せずに、自由な恋愛の気持ちを味わってほしいなとつくづく思います。, 【関連】この他にも、70代80代の方が好きな童謡や歌謡曲もご紹介していますので、こちらの記事もチェックしてみてくださいね♪, 春の小川や春が来たの定番はもちろん、これぞ春の童謡だという歌を19曲、動画と歌詞とともにご紹介します。また、楽譜は一曲から購入し、ダウンロードできるサイトも紹介しますね。春の童謡や唱歌・民謡など、唄えば日本の良さを感じて心癒されますよ。幼稚園や保育…, 80歳から89歳まで方が青春真っ只中の22歳の時に流行った曲をカラオケDAMのサイトで調べ、それぞれ年齢別にランキング20位までを紹介させていただきます。89歳の方が22歳の時の昭和27年(1952年)から、80歳の方が22歳の時の昭和36年(1961年)までのトップ20です。…, ご老人の方々に間違いなく喜ばれる人気の歌を13曲厳選しました。特に今の80代の方の子供時代から青春時代、そして結婚、出産を経て、子育て真っ只中くらいの昭和時代の大ヒット歌謡曲を集めました。だいたい昭和10年から40年代の歌で、明るく希望に満ちた名曲ばかり…, 秋の童謡を歌詞と動画つきで、17曲ご紹介します。誰でも知っている『里の秋』や『真っ赤な秋』を始め、聞くと、じ~んと懐かしくなる歌ばかりです。どの歌も、幼稚園や保育園の子どもから高齢者の方まで楽しく唄えますよ!また、秋の童謡を演奏したいという方のため…. 研ナオコ 石川さゆり 黛ジュン 青山ミチ 荒井由実 浅田美代子 山口百恵 藤圭子 石川さゆり 島倉千代子 シェリー 中原理恵 惣領智子 平山三紀 松田聖子 昭和歌謡のグループ歌手(その2)⇒こちら 小坂恭子 中尾ミエ 松村和子 吉永小百合 昭和6年、「金色仮面」の芸名でコロムビアからレコードデビュー、女性覆面歌手の第一号となる。 芸名を小林千代子とし、昭和7年「涙の渡り鳥」をヒットさせる。 尾崎奈々 森山良子 小柳ルミ子 中森明菜 西田佐知子 黛ジュン 藤圭子 昭和歌謡の女性歌手(その2)⇒こちら 加藤登紀子 ザ・ベストテン登場歌手一覧(ザ・ベストテンとうじょうかしゅいちらん)では、1978年 1月19日から1989年 9月28日までtbsで毎週木曜日の21:00 - 21:54に放送されていた音楽番組『ザ・ベストテン』に登場(ランキング入り)した歌手をその登場順に列記する。. 加藤登紀子 内藤やす子 平山三紀 【わ】 アン・ルイス (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 40年代女性必見!昭和の名曲カラオケランキング! 南沙織 小川知子 三原順子 杉田かおる 由紀さおり アン・ルイス 水前寺清子 芹洋子 山口いづみ 桜田淳子 三条江梨子 藤圭子 【た】 岡田奈々 山口百恵 渡辺真知子 南沙織 小柳ルミ子 山口百恵 松岡計井子 美空ひばり 桜田淳子 伊藤咲子 40年代女性必見!昭和の名曲カラオケランキング!昭和の歌って歌いやすくて盛り上がるヒット曲が多いですよね!今回は40代女性に向けたランキングを作りましたので存分に楽しんでください!もちろん30代や50代、20代の方まで歌える歌があると思うので、上司や先輩、飲み会などで歌わな … 【は】 石田ゆり 響かおる 上戸彩 由紀さおり ちあきなおみ 泉アキ 【ら】 杉村尚美 あべ静江 【さ】 伊藤咲子 Copyright © CyberAgent, Inc. All Rights Reserved. 大橋純子 伊藤蘭 弘田三枝子 【あ】 五十嵐夕紀 黛ジュン 山口百恵 津山洋子 1970年(昭和45年)ヒット曲ランキング; 邦楽アーティスト検索〈index〉 演歌・歌謡曲〈男性〉人気歌手一覧; 演歌・歌謡曲〈女性〉人気歌手一覧; 気になる女性演歌歌手(2018 PART-1) 気になる女性演歌歌手(2018 PART-3) 気になる女性演歌歌手(2018 PART-2) 工事中 杏里 伊東ゆかり いしだあゆみ 都はるみ 和泉雅子 金井克子 昭和歌謡の女性歌手(その1) 小柳ルミ子 風吹ジュン 田中のり子 浅野ゆう子 梓みちよ 小柳ルミ子 日野美歌 内田あかり 話題『昭和を代表する歌手』で紹介する人物 . 芸能人、スポーツ選手、芸術家、政治家、財界人など。写真つきで紹介。 三橋美智也 みはしみちや 65歳. 昭和に活躍した人物746名の写真、生没年月日、出身地を一挙紹介。昭和ガイドでは有名人(芸能人、スポーツ選手、芸術家、政治家)などを一挙紹介しています。昭和ガイドは日本唯一の昭和時代総合サイ … 中尾ミエ いしだあゆみ 林寛子 ちあきなおみ 昭和歌謡の男性歌手(その1)⇒こちら 松尾和子 園まり 美空ひばり 石川さゆり 高田みづえ 欧陽菲菲 天地真理 オードリー・ヘップバーン 森山良子 【や】 八代亜紀 戦前・戦後と歌謡界の主流であった音楽学校出身者は30年代に入るとかなり少なくなる。昭和21年に、NHK素人のど自慢が始まり、素人が人前で歌を歌う機会が多くなり、歌謡コンクールなどをきっかけとしてデビューする歌手も増えてくる。浪曲出身の村田英雄、三波春夫、民謡出身の三橋美智也などが歌謡界を引っ張る存在となり、歌声、歌唱法ともにさらに多様化が進む。また、戦後間もなくデビューした美空ひばりの天性の歌唱・表現力は、後の演歌、ポップスの両分野に影響を与え、彼女は歌謡界の女王として君臨した。, 昭和23年、キングレコードのテストに合格。27年、江口夜詩作曲の「赤いランプの終列車」がヒット。29年「お富さん」が大ヒットし、スター歌手となる。30年代に入り、「別れの一本杉」「あン時ゃどしゃ降り」「山の吊橋」などを次々にヒットさせる。低音域はやや魅力に欠けるが、ピーンと張りのある高音とバイブレーションを利かせた独特の節まわしで、演歌調の曲では第一人者となり、三橋美智也と共に30年代の歌謡界を引っ張った。, 昭和24年、松竹映画「踊る竜宮城」の主題歌「河童ブギ」でデビュー。同年、映画「悲しき口笛」に主演し、同名の主題歌も歌いヒットさせる。さらに、25年「東京キッド」、26年「私は街の子」「あの丘越えて」、27年「リンゴ追分」「お祭りマンボ」と映画に歌に大活躍、“天才少女”の名を欲しいままにする。30年代に入っても「港町十三番地」「花笠道中」「哀愁波止場」「柔」などを、40年代には「悲しい酒」「真赤な太陽」などをヒットさせる。ドスの利いた低音からファルセットを巧みに使った高音まで非常に音域が広く、正確な音程と天性のリズム感で「歌謡界の女王」の座に君臨する。晩年のヒット曲としては「愛燦燦」「川の流れのように」などの名曲がある。平成元年に亡くなり、死後、国民栄誉賞が送られた。, 昭和24年、NHKのど自慢全国コンクールで3位に入賞し、キングレコードの専属となる。しばらくヒットに恵まれなかったが、29年「吹けば飛ぶよな」がヒットし、第一線に躍り出る。明るく伸びのある美声と軽い歌い方で、31年「山陰の道」、32年「丘にのぼりて」、33年「おーい中村君」と次々ヒットを出す。, 戦時中は、満州・奉天で放送合唱団員として活躍するが、終戦後、シベリアに抑留される。24年、シベリアから帰還し、合唱団時代の師・作曲家米山正夫の紹介でコロムビア入りし、25年、「燦めくスバル」でデビュー。28年、「元気でね、左様なら」が初ヒット。艶のある低音と張りのある高音で、「小島通いの郵便船」「早く帰ってコ」「柿の木坂の家」などふるさとの郷愁溢れる歌を数多くヒットさせる。, 武蔵野音楽大学を卒業後、昭和26年、コロムビアからデビュー。しばらくヒット曲に恵まれなかったが、32年、松竹映画の主題歌「喜びも悲しみも幾年月」が大ヒットとなる。いくぶん暗みがかった重厚な歌声とクラシックを基礎とした歌唱法で、「惜春鳥」「二人で歩いた幾春秋」などをヒットさせる。巨人軍応援歌「闘魂込めて」やタイガース応援歌「六甲おろし」なども歌っている。平成元年、脳梗塞に倒れるがリハビリの末復帰した。, 神奈川県三浦のお寺の三男として生まれる。東洋音楽学校卒業後、昭和28年にビクターから「さすらいの恋唄」でデビュー。続いて出した「落葉しぐれ」が大ヒット。低音から高音まで快く響く歌声と、折り目正しい楷書的な歌唱法で、「弁天小僧」のような手拍子ソングや「東京の人」「ああダムの町」「街燈」など吉田正作曲による都会的ムード漂う曲を多くヒットさせる。32年には「踊子」をヒットさせ、文学作品の歌謡化に成功したのも、その歌唱の格調高さに依るところが大きい。, 大阪で電話局に務めるかたわら、歌謡学院で歌のレッスンを受ける。昭和25年、タイヘイから「ああ東京へ汽車は行く」でデビュー。鼻にかかった独特の歌声と丁寧な演歌調の歌唱で、29年「初めてきた港」、30年「かえりの港」とヒット。さらに、32年には「お月さん今晩は」が大ヒット。東芝レコードへ移籍後、35年、「月の法善寺横丁」をヒットさせ、大阪物はヒットしないというジンクスを吹き飛ばした。, 少女時代から童謡歌手として活躍。大村能章の日本歌謡学院で学び、キングレコードから都能子の名でデビュー。ヒットに恵まれなかったが、林伊佐緒の紹介でコロムビアに移り、昭和28年、松竹映画「君の名は」の主題歌「君の名は」「黒百合の歌」が大ヒットとなる。混じり気のないアルトの美声と力強く、かつ、正確な歌唱で息長く活躍した。, 父親は元浅草オペラの歌手、作曲家の陸奥明。古賀政男の養女となり、昭和12年、古賀久子の名で童謡歌手としてデビュー。昭和15年から本名の菅原都々子になり、「乙女馬子唄」「アリラン月夜」などをヒットさせる。強烈なヴィブラートのかかった独特の歌唱法で、26年「江の島悲歌」「連絡船の唄」をヒットさせ“哀調の歌姫”と呼ばれる。30年には、陸奥明作曲による「月がとっても青いから」が大ヒット。, 昭和26年、コロムビア全国歌謡コンクールで優勝。27年、覆面歌手として「娘十九はまだ純情よ」でデビューする。澄んだ歌声と哀愁を漂わせた丁寧な歌い方で、「渡り鳥いつ帰る」「どうせひろった恋だもの」「東京のバスガール」などをヒットさせる。37年、結婚し引退する。, 長野県飯山高等女学校を卒業後、宝塚歌劇団に入る。24年、コロムビアから「ブギウギ巴里」でレコードデビュー。25年、ポリドールから「ビギン・ザ・ビギン」を出す。26年に宝塚歌劇を退団。その後、東芝レコードに移り、36年「ラストダンスは私に」、39年「サム・トワ・マミー」などをヒットさせる。その他、「愛の賛歌」などシャンソンの名曲を聴衆に訴えかけるようなダイナミックな歌唱で歌う。そのステージは聴く者を引き付け、カリスマ的存在として一時代を築いた。, 昭和26年、キングレコードのオーディションに合格し、アメリカでヒットしていたテネシーワルツを日本語で歌い、ヒットさせる。ダイナミックな歌唱と明るいキャラクターで人気を得て、美空ひばり、雪村いずみとともに“三人娘”と呼ばれる。アメリカでカール・ジョーンズに師事し、ジャズシンガーとしてスターの地位を確立。その後、女優としても活躍するが、57年、突然死去。, 父親の自殺もあり、10歳の頃から進駐軍のキャンプ巡りをして生計を立てる。日劇ミュージックホール出演中にスカウトされ、昭和28年、ビクターから「想い出のワルツ」でデビュー。抜群のリズム感と歌唱力で、29年「青いカナリア」「オー・マイ・パパ」、31年「慕情」「エデンの東」などのジャズソングを歌い、ヒットさせる。また、52年にはミュージカル「マイ・フェア・レディ」にも出演。, 子供の頃から母親に民謡を教わり、11歳の時、北海道の民謡コンクールで優勝し、“民謡界の少年横綱”と呼ばれる。また、三味線を鎌田蓮道に、津軽三味線を白川軍八郎に学ぶ。昭和28年、キングレコードにスカウトされ、翌年デビュー。30年、「おんな船頭唄」が大ヒットとなる。民謡を基礎にした節回しと張りのある高音の魅力で、「リンゴ村から」「哀愁列車」「おさげと花と地蔵さんと」「夕焼けとんび」「達者でな」「古城」と立て続けにヒットさせ、“ミッチーブーム”を巻き起こす。その後も、歌謡界の第一人者として、また、民謡では三橋流の家元として幅広く活躍する。, 昭和29年、ポリドールから「雪之上変化の唄」でデビュー。31年、「若いお巡りさん」が大ヒット。快く響く明るい歌声とお巡りさんのスタイルで現在も歌い続けている。他に「帰る故郷もない俺さ」などのヒットがある。, 昭和29年、マーキュリーレコードの全国歌謡コンクールで優勝し、翌30年「マドロス娘」でデビュー。31年「十九の浮草」で初ヒットを飛ばし、32年「未練の波止場」、33年「だから云ったじゃないの」と続けてヒット。34年、東芝レコードへ移籍後も、バイブレーションを効かした独特の歌い回しで、「お別れ公衆電話」をヒットさせる。豪華なステージ衣装と右手に持ったハンカチはトレードマーク。“お恵ちゃん”の愛称で親しまれ、少女のようなかわいらしさは亡くなるまで変わらなかった。, 昭和29年、コロムビア全国歌謡コンクールに優勝して、コロムビアと契約。30年、「この世の花」でデビュー。同年「りんどう峠」、31年「東京の人さようなら」、32年「東京だよおっ母さん」、33年「思い出さん今日は」「からたち日記」と立て続けにヒットを出す。澄んだ歌声とささやきかけるような歌い方で、36年「襟裳岬」「恋しているんだもん」、41年「ほん気かしら」などがヒット。美空ひばりとは対照的な心を込めた丁寧な歌唱で女性トップ演歌歌手となる。56年には「鳳仙花」、62年には「人生いろいろ」をヒットさせ健在ぶりを見せる。, 昭和30年、ビクターから「恋人よわれに帰れ」でデビュー。初めはジャズを歌っていたが、その魅惑的な低音の歌声を吉田正に認められ、歌謡曲を歌うようになる。31年「公園の手品師」、32年「東京午前3時」「夜霧の第二国道」「有楽町で逢いましょう」、33年「羽田発7時50分」「西銀座駅前」、34年「夜霧に消えたチャコ」と次々ヒットを飛ばし、ムード歌謡の先駆者的存在となる。さらには昭和4年に発売された「君恋し」をムード歌謡的にリバイバルし、ヒットさせる。他に「霧子のタンゴ」「逢いたくて」「おまえに」などのヒットがある。60年、自宅で自殺を図り、命は取りとめたものの再起不能となった。, 昭和24年、NHK全国歌謡コンクールで3位に入賞。キングレコードから31年にデビュー、「男のブルース」が大ヒットとなる。豊かな低音の歌声とスケールの大きな歌唱で、「夜霧の滑走路」「俺は男というサムライさ」などのヒットがある。また、「月光仮面」などのテレビ主題歌も歌っている。, 16歳で日本浪曲学校に入学。南条文若の名で浪曲歌手としてデビューする。昭和32年、歌謡界に転向し、三波春夫の名でデビュー。浪曲調の歌声を歌謡曲向きの伸びのある明るい歌声に変え、「チャンチキおけさ」「船方さんよ」「雪の渡り鳥」「東京五輪音頭」と次々ヒットを飛ばす。また、「鴛鴦道中」「大利根無情」など股旅ソングのヒットも多い。70歳を越えても、明るく朗々とした歌声は変わらず、レオタード姿の女性をバックダンサーに従えるなど、伝統的な浪曲調に現代的感覚を取り入れた独特の芸風をもっていた。, 浪曲師の家に生まれ、4歳のときに初舞台を踏む。酒井雲坊の名で浪曲師として活躍。昭和26年、上京し、翌27年、浪曲新人最優秀賞、28年、桃中軒雲右衛門賞を獲得。古賀政男にスカウトされ、33年コロムビアから村田英雄の名でデビュー。浪曲を基礎としたドスの効いた男らしい歌っぷりで「無法松の一生」が大ヒット。34年には、戦前に楠木繁夫が吹き込んだ「人生劇場」を歌い、ヒットさせる。36年には「王将」がミリオンセラーとなる。その後も「皆の衆」などのヒット出す。近年は、相次ぐ闘病生活、脱疽による片足切断などの不幸に見舞われるが、不屈の闘志で奇跡の復活を果たした。, 浪曲師・東若武蔵を父にもち、4歳で初舞台を踏む。9歳でポリドールからレコードを出し、天才少女と呼ばれた。戦後は歌謡浪曲の分野を開拓。昭和50年には、戦後まもなく菊池章子が歌った「岸壁の母」をリバイバルで吹き込む。浪曲調の歌い回しと情感たっぷりに語りかける台詞入りで大ヒットとなる。平成23年、歌手としての余力を残しつつも現役を引退。後進の育成に意欲を見せる。, 昭和28年、テイチクの新人コンテストに優勝し、「夜霧の酒場」でデビュー。30年、「次男坊鴉」が大ヒットし、スター歌手仲間入り。渋い低音の美声で女性ファンの人気を集める。36年に出した「はたちの詩集」など、台詞入りのヒット曲が多い。最近も新曲を発売するなど精力的に活動中。, 渡久地政信に師事し、昭和30年、キングレコードから「千鳥のブルース」でデビュー。続く「東京アンナ」が大ヒット。31年には「ここに幸あり」、33年には「銀座の蝶」をヒットさせる。力強いアルトの歌声とダイナミックな歌唱で活躍する。55年、クモ膜下出血に倒れ、生死の境をさまようが、奇跡的にカムバック。現在も力強いその歌声は健在。, 昭和32年、コロムビアから「十代の恋よさようなら」でデビュー、ヒット曲となる。翌33年、「銀座九丁目は水の上」がヒット。温かみのある低音の歌声、スリムな体型と甘いマスクでアイドル的存在となる。, 中学卒業後上京し、進駐軍のキャンプでジャズなどを歌う。赤坂のクラブ・リキの専属歌手として歌っていたところをフランク永井にスカウトされ、昭和34年、ビクターからフランク永井とのデュエット「東京ナイトクラブ」でデビュー。35年の「誰よりも君を愛す」は大ヒットし、日本レコード大賞を受賞。甘く官能的な歌声で、35年には「再会」もヒットさせている。平成4年、自宅の階段から落ちる事故が原因で亡くなった。, 昭和28年にはテレビ放送が始まり、30年代中頃になると一般家庭にもテレビがかなり普及すると、歌謡界もテレビ時代に突入する。聴衆が歌手に求めるものが「歌声」、「歌唱力」という聴覚的なものから「容姿」、「衣装」などの視覚的なものへと変化していった。その結果、声の魅力や歌唱力のない歌手が増加していった。昭和40年頃から、歌謡曲は演歌とポップスという分類がなされるようになる。さらには、フォークやロックなど新しい音楽が流行すると同時に、時代背景が反映されたいわゆる「流行歌」が少なくなっていく。「歌は世につれ、世は歌につれ」とは言えない時代の始まりである。, 遠藤実の歌謡学院で歌を学ぶ。作曲家吉田正に師事し、昭和35年、「潮来笠」でデビュー。その年の、日本レコード大賞新人賞を獲得。37年には「江梨子」、そして吉永小百合とのデュエットで歌った「いつでも夢を」が大ヒット。甘いマスク、鼻にかかった歌声と軽い歌い回しで人気を得る。他に「あの娘と僕」「雨の中の二人」「霧氷」などのヒットがある。, バンドボーイから歌手にスカウトされ、昭和35年、東芝レコードから「ステキなタイミング」でデビュー。36年、永六輔(作詞)、中村八大(作曲)との“六八九トリオ”で出した「上を向いて歩こう」が大ヒット。アメリカでも「スキヤキ」の題名で売り出され、38年にはビルボード誌のヒットチャートに3周連続1位となる。38年「見上げてごらん夜の星を」、39年「明日があるさ」「幸せなら手をたたこう」など家族で歌えるような明るい曲を歌い、お茶の間の人気者となる。60年、日航ジャンボ機墜落事故に巻き込まれ死亡。, 高校時代にロックバンド・ウェスタンキャラバンのボーカルとして、ジャズ喫茶で歌っているところをスカウトされる。昭和36年、ビクターから「湖愁」でデビュー、“スピッツ”の愛称で女性ファンの人気を集めた。63年にはアキラバンドを結成し、近年はライブハウスなどでアメリカンポップスを歌い、活動中。, のど自慢に出ていたところをスカウトされ、東京キューバンボーイズの専属歌手となる。36年、パンチの効いた歌声で歌った「東京ドドンパ娘」が大ヒット。以後はあまりヒット曲に恵まれず「黒い蝶のブルース」を最後に引退。福岡でレストラン、クラブを経営、60年には六本木に「渡辺マリの店」をオープンした。, 大阪のジャズ喫茶で歌っていたが、鈴木英治とブルーカーボーイズのメンバーとして上京。コロムビアのディレクターにスカウトされ、昭和36年「日暮れの小径」でデビュー。37年「若いふたり」の大ヒットで若い女性の人気を集め、以後「若い明日」「若い太陽」の若いシリーズがヒット。他に「ふるさとのはなしをしよう」などのヒットがある。脳梗塞に倒れ半身不随となるが、懸命のリハビリで芸能活動を再開している。, 北海道から上京し、東京声楽専門学校でクラシックを学びながら、夜はギターの流しをして生計を立てる。コロンビアにスカウトされ、昭和37年、「ブンガチャ節」でデビュー。続く「なみだ船」が大ヒット。クラウンレコードに移籍後、「兄弟仁義」「帰ろかな」「函館の女」と次々ヒットを飛ばし、スター歌手の仲間入り。親しみやすいキャラクターと伸びのある歌声で、50年「歩」、53年「与作」、61年「北の漁場」などをヒットさせ、現在も演歌界のトップに君臨している。, 高校在学中から、作曲家遠藤実に学び、昭和38年、「高校三年生」でデビューし、これが爆発的なヒットとなる。「学園広場」「修学旅行」「仲間たち」と一連の学園ものを次々とヒットさせ、若い女性のアイドル的存在となる。41年には「絶唱」をヒットさせ、歌手としての実力を見せるが、その後、しばらく低迷する。二度の自殺未遂事件から復活し、現在はデビュー当時と変わらぬ若々しさで歌い続けている。, 昭和38年、東芝レコードから「男船」でデビュー。昭和39年、夢を求めて上京し、働く若者の気持ちを歌った「ああ上野駅」が大ヒット。張りのある歌声で人気を得る。女優・工藤夕貴は娘である。, 金沢市のヘルスセンターで歌っているところを村田英雄ににスカウトされ、昭和37年、キングレコードからデビュー。哀愁を漂わせる独特の節回しで、39年、「東京の灯よいつまでも」がミリオンヒットとなる。, 昭和38年、ビクターから「美しい十代」でデビュー、大ヒットとなる。同年「みんな名もなく貧しいけれど」、39年「若い港」と続けてヒットを出す。写真家・秋山庄太郎に“日本一の美少年”と言わしめた恵まれたルックスで人気となり、アイドル的存在となる。, 新宿や池袋のバーで歌っていたが、昭和39年、キングレコードからデビュー。「女心の唄」が大ヒットし、日本レコード大賞新人賞を獲得。温かみのある低音と語りかけるような歌唱法で人気を得る。41年には「ネオン川」をヒットさせる。, のど自慢番組の常連となっているところをスカウトされ、コロムビアからデビュー。作曲家・船村徹のもとで歌を学ぶ。芸名の大下八郎は船村に怒られてもケロリとしているので「大した野郎だ」と言われていたことから付けられた。甘い歌声と丁寧な歌い方で、39年「おんなの宿」が大ヒット。, 中学時代からクラブでジャズを歌っているところを、力道山にスカウトされ上京し、赤坂のクラブ・リキや米軍キャンプなどで歌う。昭和40年、キングレコードから出した「東京流れもの」が大ヒット。豊かな声量とパンチの効いた歌唱が特徴的。, 昭和39年、クラウンレコードから「君だけを」でデビュー。40年「星娘」、41年「星のフラメンコ」、42年「願い星叶い星」とヒットを飛ばし、橋幸夫、舟木一夫と共に“御三家”と呼ばれる。その後は、俳優として活躍。, 昭和40年、テレビドラマ「女の舞台」の主題歌を歌い、歌手デビュー。同年、「下町育ち」が大ヒット。独特のバイブレーションを効かせた歌い回しで、その後もテレビドラマの主題歌を多く歌い、活躍する。51年、クモ膜下出血で倒れるが、2度にわたる大手術のすえ、奇跡的にカムバック。, まさか、感動と驚き・・・可愛い3歳バイオリン弾きや騎馬隊が出場・・・アンドレ・リュウのコンサート, ヘブライ語聖書・原典講読・・・創世記2章【天地創造の完成そして人の創造】8節~25節, ハガード原作・・映画《ソロモン王の洞窟》の続編「ワトゥシ族」・・・ウィキペディア(英語版)の機械翻訳, ロシアの「動画共有サイト《Mail.Ru》と《RuTube》」のダウンロードの仕方, ヘブライ語聖書・原典講読・・・創世記2章【天地創造の完成そして人の創造】1節~7節. 岩崎宏美 竹下景子 森山加代子 渚う子 梓みちよ カテゴリ「日本の女性ポップ歌手」にあるページ. 藤山一郎 ふじやまいちろう 82歳. 木の実ナナ 南沙織 木之内みどり 牧村三枝子 中島みゆき 和田アキ子 倖田來未 黒木真由美 天地真理 高峰三枝子 Enjoy the videos and music you love, upload original content, and share it all with friends, family, and the world on YouTube. 柏原芳恵 青江三奈 片平なぎさ 小柳ルミ子 石田ゆり ちあきなおみ 麻丘めぐみ 石川ひとみ 中山千夏 【ま】 渚ゆう子 中原理恵 松坂慶子 大津美子 黛ジュン 浦部雅美 渡辺マリ. 伊東ゆかり 森山良子 bit.ly/1UaOgXp<昭和30年代編>戦前・戦後と歌謡界の主流であった音楽学校出身者は30年代に入るとかなり少なくなる。昭和21年に、NHK素人のど自慢が始まり、素人が人前で歌を歌う機会が多くなり、歌謡コンクールなどをきっかけとしてデビューする歌手も増えてくる。 桜田淳子 荻野目洋子 南沙織 黛ジュン 早見優 坂本冬美 畠山みどり 由美かおる 桜田淳子 岩崎宏美 欧陽菲菲 中島みゆき 桃井かおり 佐良直美 原田知世 弘田三枝子 岸洋子 内藤洋子 ジャンカラに【ボルカラが登場!!】気になる料金や店舗場所は?手ぶらで行けるボルダリング!! 山口百恵 和泉雅子 由紀さおり 欧陽菲菲 アイドル名鑑:デビュー年別(1970~1989年)主な女性アイドルとその年の出来事 70年以前にも、中尾ミエ、伊東ゆかり、園まりによる「スパーク3人娘」など、人気の女性歌手は存在しましたが、今でいう“アイドル”とはニュアンスが異なっているように思います。 いしだあゆみ 倍賞千恵子 マギー・ミネンコ 伊東ゆかり 水前寺清子 フランク永井 ふらんくながい 76歳. 高田恭子 由紀さおり 伊東ゆかり 朝丘雪路 山口百恵 庄野真代 久美かおり 昭和の歌って歌いやすくて盛り上がるヒット曲が多いですよね!, もちろん30代や50代、20代の方まで歌える歌があると思うので、 由紀さおり 麻倉未稀 高田みづえ アグネス・ラム 桑江知子 由紀さおり 伊藤咲子 伊藤咲子 森昌子 荒井由実 中森明菜 奥村チヨ カルメン・マキ 中森明菜 奥村チヨ 藤野ひろ子 西川峰子 小柳ルミ子 高橋真梨子 前川陽子 都はるみ 藤圭子 八代亜紀 欧陽菲菲 麻丘めぐみ 桜田淳子 天地真理 三東ルシア 和田アキ子 倍賞千恵子 グラシェラ・スサーナ 小柳ルミ子 五月みどり 竹下景子 金井克子 小柳ルミ子 太田裕美 松田聖子 黛ジュン 木村友衛 研ナオコ 沢たまき アン真理子 吉永小百合 天地真理 桜田淳子 小柳ルミ子 桜田淳子 ジュディ・オング カルメン・マキ ペギー葉山 矢野顕子 青江三奈, 青江三奈 八神純子 松田聖子 松平純子 瀬川瑛子 研ナオコ あべ静江 中森明菜 ジュディ・オング 伊東きよ子 安倍律子 森山良子 西島三重子 桜田淳子 日吉ミミ 大信田礼子 小坂明子 選曲に困ったら、ここから歌を選んでみてください!, 岩崎良美さんの『タッチ』はアニソンでも若い世代でも知っているので、 薬師丸ひろ子 太田裕美 千葉紘子 昭和歌謡の男性歌手(その2)⇒こちら 岡崎友紀 山本リンダ 中森明菜 研ナオコ 石川さゆり 南沙織 森山良子 石野真子 吉永小百合 黛ジュン 小川知子 いしだあゆみ カルメン・マキ 中森明菜 水前寺清子 ジュディ・オング カラオケランキング【40代男性】昭和の懐メロヒット曲100選!歌いやすい盛り上がる曲ばかり!! 個人的には盛り上がる森高千里さんがお気に入りです!, このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください。. 岩崎宏美 研ナオコ 槇みちる 岡田奈々 小柳ルミ子 男性演歌歌手・女性演歌歌手の一覧。有名・人気演歌歌手や注目の新人歌手などを一覧で掲載。cd・カセット・dvdなどもご購入頂けます。公式サイトやブログもこちらから。-【楽園堂】演歌・歌謡曲のcd・カセットテープ・カラオケdvdの通販ショップ 真理ヨシコ 由紀さおり 佐良直美 松本伊代 松田聖子 夏木マリ 由美かおる 大橋純子 美空ひばり 江利チエミ 尾崎亜美 夏木マリ 中島みゆき 目黒ひとみ 梓みちよ 松任谷由実 島倉千代子 しまくらちよこ 75歳. 中村晃子 小川順子 アグネス・チャン 非常に歌いやすいし盛り上がる歌ですよね!, さよならの向こう側は現代のアーティストもカバーをしている曲なので、 高田みづえ 水沢有美 森山良子 40代女性が求めた!【昭和のカラオケランキング】歌いやすく盛り上がる100曲集めました!! 小林幸子 南沙織 【な】 本田路津子 平山三紀 石川さゆり 山本リンダ 八神純子 1977年(昭和52年)に発売されて、その年の日本レコード大賞を獲得した石川さゆりの超名曲です… 吉永小百合 梓みちよ 久保田早紀 越路吹雪 五月みどり スポンサードリンク 加藤登紀子 安西マリア 桜田淳子 昭和の時代はたくさんのヒット曲が生まれました。男性歌手編、女性歌手編として一覧を作ってみました。僭越ながらリンクのあるところは私の音源をアップし続けている「ギターでつづる昭和歌謡」に飛ぶようになっています。どんな曲だったかなと思ったらクリッ アン・ルイス 大正期までの流行歌の主な伝播役は大衆の面前で唄う演歌師であった。しかし、昭和3年、日本ビクターと日本コロムビアの2大レコード会社の創立によって、日本の流行歌はレコード時代を迎える。これにより、街頭から演歌師の姿は消えていった。レコード草創期に歌を吹き込んだのは、大正期の浅草オペラなどの舞台で活躍していた歌手、声楽家などである。当然、その歌唱法は声の響きに重点を置いた声楽的なものが多かったが、奥田良三や四家文子など発音や詩の意味にも気を配る声楽家や、二村定一のようにポピュラーソングを歌詞をはっきりと唄う歌手も現れ、後の流行歌の歌唱法に影響を与えている。, 大正6年、沢田正二郎率いる新国劇に入り、戸山英二郎の芸名で舞台をふむ。その後、浅草オペラに身を投じるが、大スター田谷力三の人気の前に目立った存在には成れず、大正9年ヨーロッパに渡る。イタリアで声楽を学び、翌10年、ロンドンでリサイタルを開き、「荒城の月」などの日本歌曲が好評となる。昭和3年、米国ビクターで録音した「出船の港」「鉾をおさめて」「出船」が赤盤として日本に輸入され、「我等のテナー」と呼ばれる。帰国後は、日本人離れした声量と「藤原節」と呼ばれた独特の歌唱法で、当時声楽家にはあまり歌われていなかった日本歌曲を歌いまくり、全国的に流行させる。また、藤原歌劇団を設立し、日本に本格的なオペラを普及させた。, 神田錦町の女子音楽学校を中退後、昭和3年、中山晋平作曲の「波浮の港」を吹き込み、日本のレコード歌手第一号となる。昭和4年には「東京行進曲」「紅屋の娘」「愛して頂戴」など次々とヒットを飛ばす。しかし、「流行歌手」であることに劣等感を抱き、オペラ歌手を目指してイタリアへ渡るが成功せず、5年後に帰国。後輩女性歌手の台頭により、再びスターの地位に即くことはなかった。歌唱は東北なまりがひどく、優れているとは言い難い。, 浅草オペラ出身。昭和3年、米国のポピュラーソング「私の青空」「アラビアの唄」をヒットさせ有名になる。歌詞の明瞭な、鼻にかかった独特の歌唱法で、「君恋し」などをヒットさせ、ジャズソングの草分け的存在となる。その後は、弟分であったエノケンと共に舞台で活躍する。しかし、次第に酒の量が増え、かつての美声を失っていく。戦後、再びエノケンに声をかけられ一座に加わるが、公演中に急死。, 明治42年、はん子の名で半玉として座敷に出る。大正4年、姉が芸奴置屋を開業したのを機に、日本橋葭町から二三吉の名で出る。芸奴をしながら、東京レコードから「新磯節」「ストトン節」などを出す。昭和3年、ビクターの専属歌手となり、小唄・端唄を吹き込む。4年「三朝小唄」「浪花小唄」、5年「祇園小唄」「唐人お吉小唄」などをヒットさせる。芸者歌手の草分け的存在。, 東京音楽学校中退後、イタリアへ渡り、ローマのサンタ・チェチリア音楽院を卒業。テノール歌手として、ウィーン国際音楽コンクールで銀賞を得る。声の響きに重点を置くイタリア・ベルカントと歌詞の明瞭なドイツ・リートとを融合させた歌唱法を確立。その透き通るような美しいピアニッシモは多くの聴衆を魅了した。昭和11年から始まった国民歌謡でも、「夜明けの唄」「出せ一億の底力」などを歌う。晩年も、シューベルトの歌を録音するなど、終生、向上心を持ち続けた。, 東京音楽学校卒業後、オペラ歌手として活躍。その後、流行歌も歌うようになり、松竹映画の主題歌「銀座の柳」「天国に結ぶ恋」などをヒットさせる。作詞・作曲家と協力し、日本語のイントネーションを考慮した美しい歌の普及に努めた。, 東京音楽学校声楽科を卒業。ネトケ・レーヴェに師事する。昭和4年、山田耕筰作曲のオペラ「堕ちたる天女」の主役でデビュー。ソプラノ歌手として、「カルメン」のミカエラ役、「ファウスト」のマルガレータ役などを歌う。流行歌手としても、6年に吹き込んだ「日本橋から」「窓に凭れて」をはじめ、「嘆きの夜曲」「乙女の春」「雨に咲く花」などヒットも数多い。高音域も無理がない柔らかく美しい歌唱は一流オペラ歌手ならでは。戦後は藤原歌劇団で「ラ・ボエーム」のミミ役などを歌い、オペラの舞台で活躍。流行歌とオペラの二つの世界で活躍した希有の存在。, 東洋音楽学校を卒業。松竹少女歌劇団のプリマ・ドンナとして活躍。昭和6年、「金色仮面」の芸名でコロムビアからレコードデビュー、女性覆面歌手の第一号となる。芸名を小林千代子とし、昭和7年「涙の渡り鳥」をヒットさせる。戦前のヒットとしては、「銃後の花」「人の気も知らないで」などがある。戦後は芸名を小林伸江に代え、小林伸江歌劇団を設立。また、42年「マダム・バタフライ世界コンクール」を創設するなどクラシックの世界で活躍した。, 東京音楽学校卒業後、武蔵野音楽学校の講師となるが、歌手に転向。ビクターの専属歌手となり、流行歌とセミクラシックの両方で活躍。昭和6年「侍ニッポン」が、続いて吹き込んだコミックソング「ルンペン節」がヒット。戦時中は、15年「隣組」、16年「戦陣訓の歌」「歩くうた」などを歌うが、17年、37歳で病死。, イタリアに留学し、ミラノ音楽院で学ぶ。オペラを学ぶかたわら、日本の小唄や民謡も研究していた。昭和9年、ビクターの専属となり「無情の夢」を吹き込む。クラシック的でありながら、哀愁を漂わせる独特の節回しでヒットさせる。, 戦前の流行歌手は、主に音楽学校出身者である。音楽学校で発声の基礎を学んでいるので、歌声はよく通り、かつ、発音の明瞭さに優れている。「歌手の個性=声の個性」という良き時代である。また、女性が歌を勉強するのは困難な時代であり、天性の美声を持った芸者歌手の全盛時代でもある。, 昭和6年、東京音楽学校在学中に吹き込んだ「キャンプ小唄」「酒は涙か溜め息か」「丘を越えて」などが大ヒット。このアルバイトが学校に知られて、停学処分となる。音楽学校時代に学んだドイツ・リートを基礎にした歌詞の明瞭な明るく瑞々しい歌声で、戦前は古賀政男作曲による「影を慕いて」「東京ラプソディー」「男の純情」、戦後は服部良一作曲による「青い山脈」「丘は花ざかり」、古関裕而作曲による「夢淡き東京」「長崎の鐘」など数多くの曲をヒットさせる。「歌は作詞、作曲、歌唱の三者の関係が正三角形でなければならない」という持論のもと、楷書的な歌唱で歌い続け、流行歌手の地位を向上させた。平成4年、国民栄誉賞を受賞。, 音楽学校在学中は「十年に一人のソプラノ」と言われ、クラシック歌手を志すが、生活のために流行歌の世界に入り、昭和5年、「久慈浜音頭」でデビュー。昭和12年、服部良一作曲による「別れのブルース」が戦地で歌われヒットする。さらに、「雨のブルース」「東京ブルース」などがヒットし、ブルースの女王と呼ばれる。戦時下にあっても軍に反発し、「これが私の戦闘服」と言ってドレスを着続けた。歌唱は共鳴を上手く使った無理のない発声法で、特に高音は安定感がある。, 東京音楽学校を中退し、昭和5年、秋田登の名前で歌手デビュー。レコード会社、芸名を何度も変えた後、テイチクで古賀政男と出会い「白い椿の唄」「緑の地平線」「女の階級」などを、持ち前の透明感のある美しい歌声でヒットさせた。歌手の三原純子と結婚するが、戦後はヒット曲に恵まれず、また、病弱の妻の身を悲観して、昭和31年、自宅の物置小屋で自殺。, 昭和4年、新潟から上京し芸者となる。5年、オデオンレコードから「佐渡おけさ」でデビュー。ビクターに移籍後、8年に「島の娘」が大ヒット。その後も「東京音頭」「さくら音頭」など一連の「ハァ小唄」が次々とヒット。戦時中も、「明日はお立ちか」をその哀調ある美声で歌いヒットさせている。, 浅間温泉のお座敷芸者時代から「うぐいす芸者」と呼ばる。清元、宮園節、小唄など邦楽を身に付け、昭和6年、歌謡界にデビュー。昭和8年、中山晋平作曲「天竜下れば」が大ヒット。戦後は服部良一作曲「三味線ブギ」がヒット。ブギのメロディーを邦楽的な歌唱法で歌い、独自の世界を切り開く。, 16歳のときに小倉で梅若の名で芸者となる。昭和4年、ビクターで「小倉節」を吹き込む。昭和8年、コロムビアから「ほんとにそうなら」でデビューし、これが大ヒット。切々とした歌い方で、「そんなお方があったなら」「ゆるしてね」などを続けてヒットさせる。他に「白頭山節」「黒田節」などの民謡も吹き込んでいる。, 音楽教師から歌手に転身。昭和7年、コロムビアから柳井はるみの芸名で「ラッキーセブンの唄」でデビュー。10年、テイチクで吹き込んだ古賀政男作曲の「夕べ仄かに」がヒット。キングレコード移籍後、12年に「マロニエの木陰」が大ヒット。クラシック的な正統派の歌唱で、舞台でもオペレッタの公演を行っている。, 武蔵野音楽学校卒業後、昭和7年、コロムビアから「夜霧の港」でデビュー。9年、コロムビア・リズム・ボーイズと吹き込んだ「山の人気者」が大ヒット。10年「小さな喫茶店」、13年「バンジョーで唄えば」などのジャズ・ソングを、鼻にかかった明るい歌声で歌い、ヒットさせる。戦後は作曲家として、若原一郎の「おーい中村君」、三橋美智也の「赤い夕陽の故郷」「達者でナ」などを作曲する。, 東京音楽学校在学中、アルバイトでレコーディングするが、学校に知られ退学。昭和8年、コロムビアからデビュー。「ポスト藤山一郎」として期待される。深みのある甘美な歌声で、「サーカスの唄」「急げ幌馬車」のような哀愁漂う曲調から「花言葉の唄」のような叙情歌調の曲までヒットは多い。, 満鉄の職員であったが、クラシック歌手への夢を捨て切れず、34歳で歌手に転身。昭和9年、「赤城の子守唄」が大ヒット。その後も、「国境の町」「旅笠道中」「むらさき小唄」「野崎小唄」などをヒットさせ、日本調の歌では他の追随を許さなかった。戦時歌謡では「麦と兵隊」などが有名。ロイド眼鏡に燕尾服、直立不動で歌うスタイルは、テレビ時代になっても変えなかった。口を大きく開け、全身で発声する歌声には独特の哀調がある。, 大学時代にジャズバンドを結成。昭和9年、「ダイナ」「黒い瞳」などをヒットさせ、ジャズ歌手として認められる。その後、「人生の並木路」「旅姿三人男」などの日本調から「或る雨の午后」などのタンゴ調まで多くの歌をヒットさせる。深みのあるバスの歌声で、戦後も、22年の「夜霧のブルース」「長崎エレジー」などのヒット曲がある。, 武蔵野音楽学校卒業後、昭和8年、ポリドールからでデビュー。昭和11年、「忘れちゃいやヨ」が大ヒット。しかし、厳格な家に育った渡辺が苦心の末に吹き込んだ甘い歌い方が、「婦女の嬌態を眼前に見る如き官能的歌唱」と発売禁止になる。その後、「支那の夜」「蘇州夜曲」「何日君再来」などの大陸物をヒットさせる。正統派の力強いソプラノの歌声は、歌謡界にあっては異彩を放った。, 東京音楽学校を卒業後、昭和8年、コロムビアから覆面歌手ミス・コロムビアの名で「浮草の唄」でデビュー。同年「十九の春」、9年「並木の雨」とヒットを続ける。13年、松竹映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」を霧島昇とのデュエットで吹き込む。翌14年、霧島昇と結婚。くせのない正統的な歌唱と澄んだ歌声で、戦後も霧島昇とのデュエットで「目ン無い千鳥」「三百六十五夜」をヒットさせる。, 明大在学中に国立音楽院ピアノ科で学ぶ。昭和9年、日東レコードから歌手としてデビュー。昭和14年には、陸軍省と講談社が詞と曲を募集した「出征兵士を送る歌」で作曲家としてもデビュー。歌手としての初ヒットは、新橋みどりとのデュエットで歌った「若しも月給が上がったら」。力強い正攻法の歌唱で、戦後は「ダンスパーティーの夜」「真室川ブギ」「高原の宿」などを自らの作曲でヒットさせる。また、三橋美智也の「リンゴ村から」、春日八郎の「長崎の女」など作曲家としてもヒット曲を出し、歌手と作曲家の二足の草鞋で活躍。, 作曲家・江口夜詩に認められ、昭和9年、コロムビアからデビュー。11年、松平晃とのデュエットで歌った「夕日は落ちて」が大ヒット。美人芸者歌手として活躍する。他にヒット曲は「朝霧夜霧」「月に浮かれて」などがある。, 昭和9年、キングレコードから「桜ばやし」でレコード・デビュー。テイチク移籍後の昭和11年、杉狂児とのデュエットによる同名の映画主題歌「うちの女房にゃ髭がある」がヒット。また、ソロで歌ったこの映画のもう一つの主題歌「あゝそれなのに」もヒットさせる。金属的な響きをもった独特の歌声で、他に「軍国の母」「吉良の仁吉」などのヒットがある。, 東京淀橋署に勤務する警察官であったが、銭湯で歌っているところを作曲家・細田義勝にスカウトされる。昭和10年、ビクターから「祖国の護り」でデビュー。芸名の「巡」は「巡査」から一字とってつけたものである。11年、「守護兵ぶし」がヒット。テイチク移籍後、13年「涯なき泥濘」「音信はないか」を吹き込む。独学ならではの軽い歌い回しと甘い歌声で戦時歌謡を歌い、人気を博した。, 専修大在学中は、野球部でエースピッチャーとして活躍。また、声楽をテノール歌手の大和田愛羅に学ぶ。昭和11年、ポリドールから歌手デビュー。翌12年、「妻恋道中」「流転」「上海だより」がヒット。鼻にかかった甘い歌声、軽く語りかけるような歌唱法で、日本調の歌では東海林太郎に迫る活躍ぶり。南方派遣軍に召集され、昭和19年、ニューギニアで戦病死。遺骨は未だ祖国に帰っていない。, 鉄道省に入り、千葉鉄道管理局に勤務するかたわら、音楽サークルを作り、全国の駅を歌って回る。昭和12年、キングレコードのテストに合格し、同年「軍国子守唄」がヒット。戦時下の14年には、戦死した息子を思う母の心を唄った「九段の母」をヒットさせる。豊かな低音の歌声とパンチの効いた歌唱は90歳を越えても健在であった。晩年は現役最長老歌手として、「昭和の万葉集」と称しながら、亡くなった歌手仲間のヒット曲を歌い続けた。, 帝国音楽学校でピアノを学ぶ。昭和8年、コロンビアの専属歌手となる。初めはヒットに恵まれなかったが、昭和15年、「高原の旅愁」がヒット。戦時体制下では、「暁に祈る」「熱砂の誓い」など軍事歌謡のヒットも多い。持ち前の声量で、「イヨマンテの夜」などを豪快に歌い上げ、大ヒットさせる一方で、「あざみの歌」「山のけむり」といった叙情歌調でも哀愁漂う味わい深い歌唱を見せる。, ハワイ・ホノルル生まれ。立教大学在学中に兄・晴彦が作ったバンドの専属歌手となる。昭和11年、ビクターから「ハワイのセレナーデ」でデビュー。15年、「燦めく星座」が大ヒット。甘いマスクで女性に人気があり、ブロマイドの売上では、俳優・上原謙、長谷川一夫等を押さえてトップであった。甘い美声と若々しさで、戦時中は「森の小径」「新雪」「鈴懸の径」、戦後は「東京の屋根の下」「アルプスの牧場」などの青春歌謡を数多くヒットさせている。, 東洋音楽学校卒業後、浅草のレビュー小屋などで歌う。昭和11年、エヂソンレコードにスカウトされデビュー。コロムビア移籍後、ミス・コロムビア(松原操)とのデュエットで歌った、松竹映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」が大ヒット。後に妻となる松原操とのコンビでは他に「一杯のコーヒーから」「三百六十五夜」などのヒットがある。甘く切ない歌声と真摯な歌唱態度で、「誰か故郷を想わざる」「胸の振子」などヒットさせ、戦前・戦後の歌謡界を支えた。, 東京音楽学校を卒業。女学校の教師をしていたが歌手に転向し、昭和11年「夜のセレナーデ」でデビュー。ビクター移籍後の14年、熱海の温泉PRのために限定発売した「熱海ブルース」がヒット、続いて発売した「長崎物語」もヒットした。声楽で鍛えたアルトの歌声をセーブし、やや気だるい感じで歌う歌唱には独特の情緒がある。14年には、ビゼー歌劇「カルメン」の主役でオペラ・デビューも果たす。, 東洋音楽学校在学中からソプラノ歌手・原信子に師事、オペラに出演する。昭和12年、ビクターから「泣いて居る」でデビュー。温かみのあるアルトの歌声は聴く者に安心感を与える。歌唱がオーソドックスであったせいか、ソロによるヒット曲があまりないが、小畑実との「湯島の白梅」「勘太郎月夜唄」や竹山逸郎との「誰か夢なき」「月よりの使者」など男性歌手とのデュエットで数多くのヒットを出している。, 作曲家の長谷川堅二に師事し、昭和14年に「帰らう帰らう漢口へ」でタイヘイからデビュー。コロムビアに移籍後、17年「南から南から」を明るく爽やかに歌い大ヒット。戦後はあまりヒット曲に恵まれず、さらには胸の病気を患い故郷の岐阜で療養生活に入る。31年には夫・楠木繁夫が自殺、その2年後の33年に亡くなった。, 昭和15年、テイチクからデビュー。翌16年、東海林太郎とのデュエットによる「琵琶湖哀歌」がヒット。続いて吹き込んだ「十三夜」は発売当時あまりヒットしなかったが、戦後になって「のど自慢」などで良く歌われるようになった。清らかな歌声と繊細な表現に秀でた歌唱で、他に東海林太郎と歌った「九段のさくら」などのヒットがある。55年には日朝音楽芸術交流会会長に就任。57年、北朝鮮での国際音楽祭に出席するなど、日本と北朝鮮との音楽交流に尽力している。, 歌手の歌唱法も多様化し、それは戦後歌謡界の男性歌手・四天王の歌唱に代表される。明るい朗々とした歌声のオカッパル(岡晴夫)、切々と語りかける歌唱のバタヤン(田端義夫)、正統派で甘い歌声の近江俊郎、ささやくようなクルーン唱法の小畑実である。この中で、岡と田端の歌唱は現代演歌の原形とも言える。また、戦前にブルースをヒットさせた服部良一がブギのメロディーを作曲し、それらを笠置シヅ子が歌いヒットさせた。現在の歌謡界の主流とも言えるポップスはここに始まる。, 昭和14年、親友の作曲家上原げんととのコンビでデビュー。「上海の花売り娘」「港シャンソン」をヒットさせる。鼻にかかった癖のある歌唱法のため、戦時中はヒットに恵まれなかったが、戦後はその明るい朗々とした歌声で、昭和21年「東京の花売り娘」、21年「啼くな小鳩よ」、23年「憧れのハワイ航路」と大ヒットを連発。雑誌「平凡」の人気歌手投票でも、25年から3年連続して第1位と、空前のオカッパル・ブームとなる。死後、大阪のオカッパル・ファンを中心に「岡晴夫を偲ぶ会」が生まれた。, 武蔵野音楽学校中退後、昭和11年、タイヘイからデビュー。戦前は芸名、レコード会社を次々と変えるがヒット曲に恵まれなかった。昭和21年、奈良光枝とのデュエットで吹き込んだ「悲しき竹笛」がヒット。その後も「山小舎の灯」「黒いパイプ」「思い出は雲に似て」などラジオ歌謡でヒットを飛ばす。低音にやや響きがないが、高音は美しいヴィブラートがかかった甘い歌声で、23年には「湯の町エレジー」が空前の大ヒットとなる。晩年は、テレビの歌番組のコメンテーターとして有名。, 昭和14年、「島の舟唄」でデビュー。戦前は「大利根月夜」「梅と兵隊」などがヒット。切々と心に訴えかけるような歌唱法で、戦後は「かえり船」「玄海ブルース」「ふるさとの燈台」などをヒットさせる。その後、しばらく低迷するが、昭和37年、南の島唄「島育ち」を世に送り出しカムバック。50年には、「十九の春」がヒット。ぼろぼろのギターをかかえた独特のスタイルで、今もなお現役歌手として活躍中。, 昭和2年、13歳で大阪松竹歌劇部(OSK)から三笠シヅ子でデビュー。崇仁親王の三笠宮家創立により、芸名を笠置シヅ子に変える。昭和22年、服部良一作曲による「東京ブギウギ」を歌い、一躍スター歌手となる。ステージを所狭しと動き回り、ダイナミックな踊りと歌唱で一世を風靡した。「ジャングルブギ」「ヘイヘイブギ」「買物ブギ」などをヒットさせ「ブギの女王」と呼ばれる。昭和30年以降は歌手を引退し、女優業やテレビの歌番組のコメンテーターなどの仕事をしていたが、決して歌うことはなかった。, 満州に生まれ、奉天女子商業学校在学中に声楽を学ぶ。昭和13年、満州映画「蜜月快車」で映画デビュー。声楽で鍛えたリリカルで美しく澄み渡ったソプラノの歌声と美しい容姿で人気を集めた。14年、長谷川一夫と共演し、東宝映画「白欄の歌」「シナの夜」に出演。15年、映画「熱砂の誓い」に主演し、主題歌「紅い睡蓮」を歌い、ヒットさせる。戦後は、山口淑子の名でビクターから「夜来香」を出し、大ヒットさせた。その他、渡辺はま子が吹き込んだ「シナの夜」「蘇州夜曲」などの大陸物もレパートリーとなっている。, 日本高等音楽学校に学んだ後、昭和16年にデビュー。昭和17年、藤原亮子とのデュエットで「湯島の白梅」が、翌18年には「勘太郎月夜唄」がヒット。朝鮮生まれのため発音にやや難があるものの、ささやきかけるような甘いクルーン唱法で、戦後は「長崎のザボン売り」「薔薇を召しませ」「小判鮫の唄」「星影の小径」と次々ヒットを飛ばし、岡、近江、田端の3大スターに肉迫。32年に引退するが、44年再び歌謡界に復帰。54年、ゴルフ場で急死。, 松竹少女歌劇団に入り、昭和8年、暁照子の名でデビュー。少女歌劇卒業後は、東宝や松竹の舞台で活躍。昭和26年、ビクターから「ミネソタの卵売り」「東京シューシャインボーイ」を発売。軽快な曲調と明るい歌声がマッチして大ヒットとなる。, 昭和14年、少女歌手としてコロムビアからデビュー。18年、映画「湖畔の別れ]の主題歌「湖畔の乙女」がヒット。テイチク移籍後の22年、東京日日新聞へのある女性の投稿記事をもとに作られた「星の流れに」を歌い、これが大ヒットとなる。情感を込めた切々とした歌い方で、26年には「岸壁の母」をヒットさせる。, 昭和15年、コロムビアから「南京花轎子」でデビュー。18年、藤山一郎とのデュエットで「青い牧場」を歌う。21年、大映映画「或る夜の接吻」に主演、近江俊郎と歌った映画主題歌「悲しき竹笛」が大ヒット。24年には「青い山脈」を藤山一郎とのデュエットで、また、26年にはソロで「赤い靴のタンゴ」をヒットさせる。当時の流行歌手としては珍しい清純派美人で、甘く美しい歌声で多くのヒット曲を歌った。, 昭和10年、松竹少女歌劇団に入る。昭和20年、松竹映画「そよかぜ」の主役に抜擢される。その挿入歌として歌った「リンゴの唄」でレコードデビュー。その明るい歌声は、戦後の沈んだ人々の心に勇気と希望を与えた。その後も「森の水車」「可愛いスイートピー」など明るい曲調の唄を歌う。, 昭和18年、テイチクからデビュー。戦後、キングレコードに移籍し、23年、「流れの旅路」が初ヒット。27年、「上海帰りのリル」が大ヒットし、スターダムに駆け上がる。流行歌手では数少ないテノールであり、その透明感のある高音の美声は「ビロードの歌声」と言われた。その後も「待ちましょう」「あなたと共に」などをヒットさせるが、昭和36年、自宅車庫の車内で、一酸化炭素中毒により事故死。, 武蔵野音楽学校を卒業後、昭和21年、コロムビアから「朝はどこから」でデビュー。清潔感に溢れた明るく伸びのある歌声で、25年、「白い花の咲く頃」、26年には「リラの花咲く頃」「あこがれの郵便馬車」、29年には「高原列車は行く」と叙情歌調の曲を次々ヒットさせる。ジャズ、ブルースからお座敷ソングと刺激的な流行歌が多くなった時代に、オーソドックスな歌唱で叙情歌ものを歌い、異彩を放つ。一線を退いた後は、音楽教師としても活躍。, サラリーマンとして働くかたわら日本合唱団で歌っていたところをビクターにスカウトされる。昭和22年、「泪の乾杯」が大ヒット。同年、藤原亮子とのデュエットで吹き込んだ「誰か夢なき」もヒットしスター歌手となる。高音に安定感を欠くが、豊かな低音の歌声で、23年には「異国の丘」、24年には「月よりの使者」をなどをヒットさせる。, 大村能章の日本歌謡学院で学ぶ。昭和21年、ビクターの新人歌手コンクールに優勝し、22年、「お妙子守唄」でデビュー。次に出した「港が見える丘」が大ヒット。23年には「君待てども」をヒットさせる。ウェットな歌声に気怠い歌い方で、ブルースタッチの曲を官能的に歌い、「若きブルースの女王」と呼ばれた。, 昭和21年、テイチクから「貴方にはわからない」でデビュー。24年、ビクターに移籍し「お俊恋唄」をヒットさせる。戦前に小笠原美都子が吹き込んだ「十三夜」を独特のビブラートがかかった美声で歌い再ヒットさせる。31年にプロ野球の金田正一と結婚し引退するが、38年に離婚してカムバックする。, コロムビアの新人歌手募集に応募し、昭和23年、「千鳥なぜ啼く」でデビュー。24年、楠木繁夫とのデュエットで「トンコ節」を吹き込む。初めはあまりヒットしなかったが、26年に加藤雅夫とのデュエットで再吹き込みしたところ爆発的にヒットした。続いて出した「ヤットン節」もヒット、芸者スタイルで一連の「お座敷ソング」を明るく歌い上げた。, 大村能章の日本歌謡学院で学び、昭和23年、キングレコードから「泪のブルース」でデビュー。張りのある歌声と個性的な歌い回しで、24年「かりそめの恋」がヒットする。他に「東京悲歌」「恋の火の鳥」などのヒットがある。, 東京・神楽坂で芸者をしていたが、西条八十、古賀政男の二人にその美声と不思議な色気が気に入られ、昭和27年、「こんな私じゃなかったに」でデビュー。「テネシーワルツ」の日本盤として、西条・古賀コンビで作った「ゲイシャワルツ」が大ヒット。戦後初の芸者歌手として、「見ないで頂戴お月さま」「こんなベッピン見たことない」と一連のお座敷ソングをヒットさせるが、30年、突然引退。, 8歳の時に音羽ゆりかご会に入り、妹の川田孝子と共に童謡歌手として活躍する。「里の秋」「みかんの花咲く丘」「とんがり帽子」などを歌いヒットさせる。その後、武蔵野音大に進み、昭和30年に卒業。澄んだ歌声と癖のない叙情的な歌唱で童謡を歌い続けていた。, 東京音楽学校卒業後、昭和11年、コロムビアの専属歌手となる。昭和14年、松竹大船映画「春雷」の主題歌「古き花園」が大ヒット。戦時中は、「なつかしの歌声」「春よいずこ」「新妻鏡」など藤山一郎、霧島昇等とのデュエットで数多くのヒット飛ばす。戦前はかなり音域が高く、ソプラノに近い歌声であったが、戦後は音域が低くなり、本格派アルト歌手として活躍。「夜のプラットホーム」「フランチェスカの鐘」「恋の曼珠沙華」「さようならルンバ」などブルースからルンバまで様々なリズムを歌いこなし実力を見せる。晩年も懐メロ番組などに登場し、元気な歌声を披露していたが、平成15年に現役引退を表明した。, 日本大学在学中、歌っているところを作曲家・細田義勝にスカウトされる。昭和13年、ビクターから「晴れの土俵」でデビュー。続いて出した細田の作曲による「カタカナ忠義」がヒット。テイチク移籍後、15年には「誉れの馬車」を吹き込む。また、戦後はコロムビアに移籍し、「港の恋唄」などをヒットさせた。ラフなスタイルと軽妙な歌い口で人気を得た。, まさか、感動と驚き・・・可愛い3歳バイオリン弾きや騎馬隊が出場・・・アンドレ・リュウのコンサート, ヘブライ語聖書・原典講読・・・創世記2章【天地創造の完成そして人の創造】8節~25節, ハガード原作・・映画《ソロモン王の洞窟》の続編「ワトゥシ族」・・・ウィキペディア(英語版)の機械翻訳, ロシアの「動画共有サイト《Mail.Ru》と《RuTube》」のダウンロードの仕方, ヘブライ語聖書・原典講読・・・創世記2章【天地創造の完成そして人の創造】1節~7節.
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